ここ最近、あれこれありすぎて
先月二十日にインコのジャッピー(6歳3ヶ月)、昨日うずらのごまさんが亡くなった。
鳥でもてんかん持ちの子がいると知ってびっくりした。
強制給餌のやり方がよくなかったのだと思う。
ここ最近ではインコのジャッピーのきょうだい鳥のピッちゃんは手の中で、九カ月しか一緒にいれなかった猫のキジ子さんは病院にいるときに急に苦しみ出して亡くなった。
間近で亡くなったのを見てなんとも言えない気分になった。
小人のころにもインコはいたが亡くなる度に私がないていたのを見て、母親は悲しいと言ってたことがある。そんな私を見たくないとも言ってた。
私は未だに我が家のペットが亡くなると泣く。今日も亡くなったかと思って声かけて、まだ息が合った時に何度か名前を呼んだ。泣き叫びかけてたのでそばにいた猫たちは私の顔をマジマジと見てた。
そりゃそうだろうな、怒る笑う喜ぶという表情は見せたことはあるがあからさまに泣く姿を猫たちに見せたことはなかった。びっくりしただろうなとは思う。でも抑えきれなかった。何度死を経験しても慣れない。
いや、慣れようとも思わないがどうして私は飼うのか。
死よりも、側で感じられる温もりや表情、生き物自体が好きだから飼う。最期が来るのはわかってはいても、喜びや楽しさを味わいたいから飼っているのだ。自己満足だと言われればそれまでだが、何年か動物がいない生活をしたこともあるがやはりいる状況には勝てない。いないと寂しい。子どもとはまた別の愛しさがある。子どもでは埋められないものが彼ら彼女らにはあるから。
だから私は動物を飼うのだ。
一人でいる方が気楽だが、やはり誰かがいないと寂しい。今も一羽残されたうずらが鳴いている。オスなのでデカイ声で鳴くのだが今日は自分の視界にいた同志であるうずらの片割れが亡くなったのを感じ取ったのか、いつもより声を上げる回数が多い。
余計に亡くなったことが思い出されて悲しい。
ある番組の占いが始まると鳴くインコのジャッピー。
慣れてはいなかったけどよく餌を食べてたごまさん。
また違う形出会えたらと思うが叶わない願いなんだろうな。
悲しいけど、それが別れなのだ。